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哲学ってなんだろう
こちらの記事ではラジオに関連する周辺事項(おすすめの本、参考図書、Q&A)も併せて紹介しています。もしよろしければ、ご一緒にどうぞ!
文字起こしです
始まりましたLoohcsアカデミー通称Lアカの時間です。
はい。
Lアカはですね、Loohcs志塾やルークス高等学院で、日頃やっている講義をポッドキャストで配信しようという企画の番組です。これまでもね、社会学やら政治学や、社会起業論などいろいろやってきました。
耳から学べるリベラルアーツということでですね、ポッドキャストもやってるんですけども、今回はですね哲学、やりたいということで。ついに哲学なんですけども。
自己紹介ねつい忘れがちになってしまうんですけれども誰なんだって。はいおなじみの方にはもうおなじみかと思いますけども、Loohcs社取締役の谷口2といった学生のりおんですよろしくお願いします。
もちろんいろんな学生さん、ルークス高等学院にはいますけれども、そこはなかなかねまだね、ラジオ喋るっていうのをね、貴重な人物であるのでね、たまには別の人をという方もいらっしゃいますいるかと思いますが、2人でやっていこうあるいは2人の方がご安心感があるかもしれないですね。ということですね。哲学をやっていきたいと思うんですけども。
哲学のイメージ
哲とは何か
教員:哲学と聞いてどういうイメージがありますか。
学生:哲学って聞くと、、。パッと思い浮かぶ哲学者でいうとプラトンかな。その人たちが何を考えてたのかっていうとやっぱりその答えのない問い。つまり人生とは何なのかとか。生きるとは何か。また何故生きるのかとか。私とは何なのか。そういった問いに対して考える営みというものが哲学なんじゃないかなっていうふうに私は捉えています。
学生:鋭いですね。プラトンとか、アリストテレスとかそういう古典については、割とブックガイドの方で紹介しているんですけれども、ルークスブックガイドの方でですね。哲学と聞くとねそういうね、何故生きるのかとか何々とはどういうことかとかね。例えば美しいとは何かとか、よく生きるとはどういうことか。などを考えるというイメージがあると思うんですけれども。なのでね例えば何か大切なものは何かみたいなことを考えたりするときに例えば経営哲学とかね。会社の何か理念みたいなものは何かとか、あと何か人生の上で大事にしたいことを人生哲学とかそういうふうに言ったりするんですけれども。元々哲学というのはですね、はい、知を愛すると、そういう意味があってですね。フィロソフィーなんですけども英語で言うと、
フィロがですね元々はギリシャ語でピレインといって愛すると。ソフィーの方がですねギリシャ語でソフィアって言ってですねこれが知恵とかそういう意味があるわけですね。ていうので日本語にするとなんだかんだちょっとよくわかりづらい。哲ってなんだみたいな。哲学以外に哲がつくことって、なかなかない。
学生:哲人とか?
教員:哲人とかね。
あと何ですかね。哲生さんとか哲史とかね人の名前ではあるかもしんないけども、なんか哲って漢字がつくのってねな、意外とないじゃないですかうんっていうのでね結構あれですよね。
哲学者は知を愛する存在
哲学って何なんだみたいな、元々は明治の時代ですねこの先ほど言ったフィロソフィーというものを輸入して翻訳するときにですね、なんて訳そうかというふうなのでですね。愛知学まさにそのままですよね、知を愛する学問と書いてとか、希哲学っていうものが採用されたんですけども、あの、希望の希に、その今の哲学の哲で、はい。
哲って言ったらなんかこうね知とかそういう知恵とかそういう意味があるので、なんであの知恵を求める希望する望むということで希哲学というふうに訳した人もいてですねこっちの方が採用されて希望の希が取れて哲学になっても、なおさら何のことかわかんなくなる。ただあのねギリシャ語はフィロソフィーて知を愛するとしか言ってないんですよ。他のね学問とかだと、例えばソシオロジーとかね、いうふうな
ロジーってついたりですね、なんかそういうことになったりするんですけども、ただこれはもう本当に知を愛するということしか言っていないのでですね。ということは、数学とか、何か経済学とかなると、なんかこうね、専門を収めて博士課程まで取ってみたいなそういうことをやんなきゃいけないんじゃないかと。
自分は哲学者だと思うか。
ふうなあれになるんですけども、哲学の場合は、知を愛するということしか言っていないので、知を愛している人は、誰でも哲学者いうことになるわけですけどもそういう意味で言うとどうですかね自分は哲学者だと思います?
学生:そういう意味ではどちらかというと、そうなのかなっていうふうには思いますね。それこそ先ほど言ったような何か問い自体を考えるっていう営みを続けているかなあというふうに思うので、そういった意味では愛しているとも捉えられるかもしれないですし。そうですねっていうと哲学者というか哲学をしているっていうのかなって思ったりもしますね。
そういう意味でねあのりおんちゃんは哲学者だと、そう端くれというか、どうですか哲学とか興味あったりしますか。普通に興味ありますね私はそう、その通りなんて言うんですよね。何でなぜなんだろうっていうね意味を求めがちなタイプなので、その人生の意味とか、その私が存在している意味とかそもそもねその人間の存在理由とか、そういった存在論とか結構興味あったりして調べたりもしてましたね。
本を読むばかりが哲学をすることではない
教員:なるほどねということでかなり哲学に造詣があるというような感じなんですけどもただ何かこうね、何だろうこれだから、知を愛するということが哲学だと言っているので、なんだろうなあんまり机に座って学ぶだけが哲学じゃないと思うんです。個人的にはですけども、まずその哲学のね、あの開始したと呼ばれているソクラテスは、基本的にはあの書物を残さないで街へ出てねと対話をして。まあソクラテスの話をちょっとしますと、ソクラテスは町に出ていろいろ対話をするわけですよ。例えば何か愛するってどういうことだと思うかとか、美しいってどういうことだと思うかとかですね、そういうのを街に出て誰かを捕まえたら急に対話をふっかけてそういうことをやってこうねみんなが実は物事をよく知らないっていうことをですね。対話によって明らかにしていくというふうな物を書くことをしなかったんですけども、そういう意味で何だろう、知を求め続ける人、まさに哲学者だったわけですけども、そのソクラテスはやっぱりこうね、別に机で勉強してたわけじゃなくてやっぱり対話をする中で考えて、わからないなと、一体どうなんだろうなというふうなことを考え続けると問い続ける考え続けるということをやったので。
こういう何ていうか、あれですよね、実践みたいなものだと思うんですようん。哲学っていうのは、うん。
だからみんな哲学者たりうるわけですよね、知を愛する人であればだからそんな何回も繰り返しになるかもしんないすけどやっぱり机に座って本を読むだけがやっぱ哲学じゃなくて、何かいろんなね、物事に触れて驚いて、なんだろうっていうふうなことを考え続ける。もっと知りたいなというふうに知を求めてやまないこの実践。それを考え続けるっていうのが哲学ってい。そうですねはいということで、だから古代ギリシャですねこの知を愛することそれ自体がもう至上の喜びだというかね、一番幸せなことだというふうに思われていたわけですよ。
でですねだからこの哲学っていうのはやっぱり何だろう。哲学すること自体、知を愛し求めること自体が幸せだと彼は考えたわけですけどこれについてどう思います。
知を愛すことだけでは生きていけないのが現実
古代の哲学者はどういう存在だった?
学生:確かにそういうふうななんでしょうね。哲学をするその何かを考え続けるっていうことは、確かに何だろう。幸せとも言えるかもしれないですけどもう実際その現実問題それだけでは生きていけない、はい、食べていくことはできないんじゃないのかな。考えるのは楽しくてもみたいなねですね。人間の本質的なそういった問いを考えるのは、確かに生きていく上では、喜びとなることはあり得ると思うんですけれども、それだけではもう実際問題生きてくの難しいんじゃないかなと思ったりしましたね。
教員:はい、じゃあ知を愛し求めることは喜びではあるけれどもうんそれだけでも生きていくことができないやっぱりね移植たりしてね礼節を知るというかね確かにそれは結構大事な観点でギリシャの古代のギリシャんですね、市民と呼ばれているような人たちはですね、基本的にあの、どれその奴隷って言っても今の言い方ではちょっと違うかもしんないすけど、これ労働する人は別にいたわけですよ、基本的にはね。
たとえばあの農作物を作る人とか、何か職人さんですとかそういう人たちですね。あんまり政治とかそういう公共の領域にはかかわらなくて、もっぱらある種そういう人たちの仕事の上に乗っかっることができる。
つまりある種の貴族みたいな。まあ貴族とは言わないですけども。あんまりその、何だろうその生活のため、生きるための仕事をしなくてもいい人たち、うんが市民と呼ばれているわけですよね。
そういう意味で言うと、家のことは、つまり女性がやり、その今でいう経済的なことは、奴隷がやると。政治みたいなね、政治とか学問とかは、こういう自由人、つまりあの市民たちがやると。そういうふうになっているのでです。つまり、あの確かにリオンちゃんのご指摘はとても何かクリティカルというかですね、哲学するこのめっちゃ幸せかもしれないけれども。哲学できるような人たちって誰なのって言われると、ただそうそうなんだけれどもこれ翻って全くその奴隷つまり、女性その家にいる女性とか、何か農作物を作ってるその農夫とか、あるいはそのね何だろう、包丁を作っている職人さんたちが全く哲学者じゃないかって言ってやっぱりその定義上そうはならないと思う。
哲学の定義
哲学ひとつの姿勢の形
知を愛し求めることは、誰でもできる、そうですね一つの姿勢であります姿勢だからそういう意味では確かにそうなんですが、確かに何か哲学をすること自体が何か至上の喜びでそれだけでいいんだみたいなことを言えるのはなかなか難しい現代社会では、どういう人たちなんでしょうかね。生きていくものこともろもろを免除されてるような人は何か哲学にこうね、だけでできるかもしれないんですけども、はい。
それはなかなか難しいけれども。やっぱりなんだかんだやっぱりみんななんかなんでだろうとかね。
そうですね好きですよねやっぱりね、なんだかんだ疑問疑問に思って、確かにそのだからってすぐ年収が上がるわけじゃないけれども、何かこうそういうことなんだってわかったとき確かに楽しいじゃない。なんで我々がこういうことがわかるかってことなんですよ。つまりわかったとかですね、そういうことかとかですね、つまりアハ体験ですよね。あは体験なるのは一体何でなんだろうみたいなところも結構哲学を考える大事なんですよね。
思考するために必要なものは言葉
こういうことが可能なのは人間が思考することができる、思考することは何を通じてやってますかね言葉を、そうなんですよ。
言葉を操ることができるから、その哲学思考というものが生み出される。
だからそれがロゴスとか論理とか言葉っていうものがあるからこそ我々はですね、アハってなることができるわけですよ。そういうことかとかね、そういうことかとなるときには絶対言葉を通じてやるのでだからあのソクラテスはやっぱりその対話をして、言葉のやりとりを通じて真理にたどり着いていくってそういう真理というかも我々が何も知らないということを言葉によって明らかにしていくという営みをしたわけですね。
ということはつまり知を愛するっていうことはですね。ある種言葉を通じて知を愛するということも言えそうですね。何か言葉のなんて言うんでしょう、本当の意味を探るともいえるんです。だから、ね、世界の秘密にちょっと触れちゃうのが、やっぱ言葉を通じてしかも言葉があるからこそ我々は何かいろんな事をやりとりできるんだということですね。
ただ一方で言葉偏重主義みたいなことを例えばね我々の体がどう感じるかとかそういうあるいはその言葉を持たない者たちがどういうふうに権利を得ていくかみたいな話も現代ではあるテーマなので、うんただそういうことを考える上でもやっぱ言葉を通じて考えていかなきゃいけない。哲学をするということはですね言葉を通じて世界の秘密に触れて、いくと、あるいはそういうことですかねどういうことなんだろうとかなんだろうとかって母ってなる。
うん。
哲学は真理にかぶせられたヴェールを脱がす営み
うんこれですね面白いこと言ってる人もいてですね、こあは体験みたいなことですね。
英語では例えば明らかにするっていうreveil(リベール)って言ったりするんですけどこれベールを置いとるつまり多い隠されたものを取るという意味なんですねべるべですようん。つまりですね、結婚式でですね、うん、ね、新郎新婦さんがですね、お父様に連れられてですね、バージンロードを歩いていって、ベールを取るじゃないですか。
そうです。
はい新郎さんが、ああいうイメージですよね、ベールを取って、本当のあり方に触れるっていうですね。はいこれをリベールというかですねの真理というものはそういうベールが包まれていたものがちょっとこうね明らかになると、そんなアハってなるみたいなね。そういうことかと。
なんかこういうベールに隠されていてよくわからなかったけれども何かいろいろ試行錯誤してですね。あの言葉を使って試行錯誤していくとベールが取れてこういう姿を本当はしていたんだっていうことがわかると、なるほど、はいっていうので哲学っていうのですねこのどういうふうになっているのだろうかとね、本当のあり方が見たいなと知というものがですね、というものを考えるのが哲学だというふうなことがどうやら言えそうだと。
それは、そのね、学問という意味でのものではなくって、まあね、何だろう、知を愛するという実践そのものなんだというふうなことが言えるわけ。なんですけれども。ですね哲学、哲学というこの知を愛するという営みは一体どのように始まるのかって話を次にしていきたいんですけれども。
哲学における二つの枠組みー存在論と認識論
これが存在論と認識論っていうのがこの大きな二つの枠組みになるわけです。むずってなる方もいるかと思いますけども、難しく考えなくてよくって、
存在論
存在論っていうのは、そもそも世界がなぜ存在しているのかとかですね、なぜ世界人物がその物事がですね、存在しているのだろうかとかですね、どのように存在しているのかとかですね。そう存在するってどういうこととかですね。あるですね、何かがある、つまり我々がないんじゃなくてあるじゃないですか。そうですね、はい例えばリオンちゃんはリオンちゃんでなくてもいい可能性はいっぱいあったのにどうしてりおんちゃんとして存在しているのだろうか。考えたことある人も結構多いと思うんですよ。
なぜ世界は存在しているのか。なぜこの世界が存在しているのかとか、地球はなぜね、存在しているのかとかですね。
そういうその、なぜ存在があるのか、存在しているのかとはどういうことなのかっていうことを考えるのが、存在論という枠組みでございますね。
はい。
認識論
でですね次にこの認識論っていうのがですね。私達はどのようにこの世界を正しく認識できるのかとかですね。うんあるいはなぜ私達は何かがあると認識することができているのかとかですね。つまり人間がどのように世界認知しているのか認識してるのかあるいは知ることなんですよね。
知るとはどういうことなのか。だから存在論が存在するとはどういうことか、認識論は存在を知るってどういうことなのかっていう、そういう営みですね、他主にこの二つがあります。ので、哲学を学ぶというかね勉強する上ではこの不大きな二つの枠組みを、を理解していると結構見通しが良くなることも多いんですよ。
なんかイメージついたりします。
確かに存在論と認識論の二つがあるっていうことはわかったんですけれども。そのどのように私達がその認識しているかっていう部分って、その当たり前であることじゃないですか。物事を見るってものは、だからそれを、何だろうな、言葉に置き換えて客観的に把握するっていうことは、なんていうんでしょう意識しないと、あまりそのできることじゃないんじゃないかなっていうふうに思ってそうですね。
だから今話聞いてる限り認識論って一体どういうふうな分野なのかなというふうに興味を持ったんですね。これからご紹介していくと思うんですけども一般結構いろんなことあるんですけども、例えば我々のですね、理性というものが、うんね例えば我々に前もって与えられた理性というものが大事なんだという説もありますし、うん。
そういうものはなく何かこう経験から学んでいくんだと。我々にとって知る上で大事なのは経験だっていう立場だったり、理性だっていう立場だったりですね。これざっくり大陸合理論とかですねイギリス経験論とか言われたりするんですけど。そのね枠組み自体も最近こうね、問われつつあるんですけども、あの経験と合理論っていう二つの説が有名だったりはしますけれども、最近ではその枠組みちょっと微妙じゃないみたいな話にはなってますね。
これはかなりちょっと抽象的だと思うので。もうちょっと具体的な話をすると、例えばですけど、例えば人は、みんな死ぬわけですけれども。死ぬということがどういうことか理性は既に知っているという説とですね。例えば、誰かが死んだおじいちゃんが死んだおばあちゃんが死んだお父さんが死んだということから学んでいくんだとかっていう説ですねそういう事後的に学習をしていくっていう説と。
元からいろんなことは知っているという説。つまり正しく理性を使ってつまり言葉を使って推論をすれば正しくこの世界のあり方を知れるっていう立場とですね、うん、あの、いろんなものが経験して、それらをこう結びつけるとなんとなく世の中の因果がわかっていくっていう、こういう学習していく説と改めて、あらかじめいろいろなことは、それなりに知っていてっていう説がありますね。
認識論ですね。これを統合したというのがカントと呼ばれる人なんですけれども、だから認識論はですね。
どうやって知るのかって我々がですね、それ結構身近なテーマでもあるんですよ。
例えばですけど、例えばですけど今地球温暖化が問題になってますよね。でもこれって、認識論的に言うとどうやって知るのって話なんですよねそれ今だとデータとか見ればって話ですけど。たかだかねデータって取れてもさ、正確なデータはここに300年のものしかとれないわけだしそうですね。
そうなったらね無限の続くこ無限でもね46億年のあの地球地球の歴史の中で何で温暖化だと言えるのかとですねそういう批判は当然やってくるわけですし。あるいはですけどこれはさっきあのもうあの話題というか話題と言っちゃあ駄目ですね何かこう大事なテーマになってますけど、例えばなんで女性とかね男性とかって認識できているのかとかですね。そういう認識ってなんでこう成立してるんだろうとかですねあるいは何で女性が家事労働をして、男性が働くんだという認識が成立しているのかとかですね。我々は文化という色眼鏡を持って、世界のあり方を見ている世界を見ているので、そういう意味では、そうそういう何か我々が無意識のうちにというか暗黙のうちに前提としていることも全部認識の枠組みなんですね。
だから日本では、例えばそういう何かあるじゃないですか。男の人は見たら男らしくしなさいとかっていうのもある種の見方ですよね。物事の見方うん、これも全部認識論的なテーマになるわけ。それも認識論に入る。
はい。
ちょっと身近ですよね。
だから、どういうふうに私達がどういう風に世界を見ているのだろうかっていうことに関するものは全部認識論なるわけです。
ちょっと抽象的なってちょっと具体で話したんですがそういう感じで考えるとだから、まあね認識が変われば世界の見方も変わると。そういう意味では結構認識論ってかなり重要。
そのいろんな学問に影響を与えるじゃないですかだって自然科学とか社会科学っていうのもある種のものの見方なので、ウンウン何でそれを分けてんのとかも。そもそもなんで市場と政府分けてるのとかですね、これものの見方なので、国民と国家とか。国民っていうのも一つの見方のねものの、うん。
それは例えばもう国民というものが成立したのがやっぱ近代社会だと言われてるように、ある時点で誕生したものの見方なんだというので、それは社会科学的なそうだし。
例えば何、例えばなんだろうこうね、そのダークマターとか素粒子とか観測するってのも、観測するという意味では物の見方なので。これ全部認識論なんですよだからそもそも私達がどういうふうに世界を見るのかっていう話は全部認識論なんで、だからすべての学問の基礎というか土台になっているということ。
もちろんそれは存在論も同じですよね。その我々が認識例えばこういう問題もあるわけですね。つまり私達が認識していないものは存在していないと言えるのかと。認識とは独立に存在しているものもあるとか逆に存在するというのがあるってことはつまり存在しないっていうのもあり得るわけじゃないですか。
つですね無が存在する、つまり無が存在ってことは無というものが存在してることになってしまうのでとかねう。じゃあ無って何なんだとかですね。存在しないということはありうるのかとかですね。何かそういうことを話したり、言えますよねはい、でもこういうことを言ってくるとだんだん頭がねごちゃごちゃなってくるんですけどもやっぱりこれも世界の根本的な考え方っていうか捉え方なので。
何でこういうことを考えるかって言ったら例えばですけど、まあね、国民というものがうまく機能していかなくなった時代はやっぱり国民という見方がもう1回問い直されるかもしれないし。あるいはそういうね何だろ地球の地球環境が悪化していく中でそもそもこの世界が存在するってどういうことなのかとかですね。
地下資源の活用の方法という意味でもやっぱり存在論的な観点が必要になってくるわけですよね。
だからそういう意味では、結構いろいろ考える本当に大きな人間が考える枠組みはこのもの物事が実際に存在している現実にあるということが言ってどういうことなのか、そこからは逃れることができないですもんねある意味で、我々はその世界はどう認識しているのか知ることができるのか。
この存在論的な立場とか認識論的な立場が違うと。結構、その後の議論、全然違ってくるんですよ。これは何かのこれは今後の何かね、この哲学の会を聞いてくれるとなんとなくわかっていくとは思うんですけども。本当に全然違う、そんなに違う畑のものになっちゃうんですよね。だからもう本当に畑が違うぐらい土壌が違うくらい、この認識論のずれが大きな議論の違いを産んだり存在論のずれが大きいのに、その議論の違いを産んだり、あるいはその存在論的な立場に近いのか認識論的な立場に近いのかでも全然議論が変わってきちゃうので。
ので、結構議論が対立してるときはそもそも世界の見方が根本的に違ったみたいなことはあるじゃないですか。細かな論点で対立してるというか、この人たち多分全然世界の捉え方違うなみたいな次元で対立してたりするので、そういうことを真剣に考えるというのはある種哲学的なつまり知を愛するというかね、その知るということとか、これが哲学の大きな枠組みなんですよ。
これを何か常に念頭に置いといてほしいんですね。
学生:じゃあ自分はあれですね、認識論的な見方をしているのか存在論的な見方をしているのかどちらかを何か見つけていくっていうのを何か一つの何しろ楽しみ方でもありますかもしんないっすね。
教員:例えばですけれど、これ前僕が考えたことなんですけれど、認識論っていうのは例えば割と何だろうな、世界が何だろうな結構一方的に恋焦がれてるような感じなんですよね。だから究極的には知り得ないものがあって、うん、それを何とか知りたいっていうなんかそういう、何なんだろうこれは見たいどうやったらこの人本当うまくを知ることができるんだろうとかですね。割とそういう高嶺の花子さんが好きなその恋焦がれてる。対象に知りたいものを、恋焦がれてるような感じの方、雰囲気があってですね、そういう内容は何かもう、もうみんな一緒にいるよねみたいななんかなんか何て言うんだろ、存在という存在いろんな存在がある祭りの中にいて何かいろんなものとかと触れ合って楽しんでるみたいな。
なんかなんかなんていうんだろう恋焦がれてるというかもうみんななんか一緒にお仲良くやろうぜみたいな感じの雰囲気があったりとかですねこれもう完全にこれはもう僕のこの印象論の話なんで、全然面白半分に聞いてもらえればいいんですけど。だからね存在のお祭りの中にいるのか、何かその知り得ないものを一生懸命しろうという努力しているのかなんかそういう感じの何か違いが態度でもありそうだなという感じはしますね。
学生:アスリートみたいですね認識の方は
教員:そう結構求道者なんですよだって、どうやったらその世界の真のあり方と我々の認識のあり方をこうね一致できるのかっていうのはね結構アスリート的っていうか求道者的な、つまりね、
そういう側面があって。存在論はね何かこうね割ともう既に身の前にあるものとの触れ合いの中で自分のことを考えていくというか、うん、はい、というので何かそういうこうねそれは結構生き方の違いでもあるじゃないですか。いやこれはまあね冗談半分で聞いて欲しいっていうか、全部の話冗談半分に聞いてほしいんですけども、うん。
そう考えると、結構なんかねいろいろな物事の見方変わってきそうだなみたいなね。あの求道者的なのか、ある種なんかこう、なんかお祭りが好きみたいなんがなんかそういうね、ストイックなのか、なんかこう、まあねちょっとこう、戯れようぜみたいな全体的に見るっていうか、はい。
なんかねそういう。知識とかその頭で考えることが優位なのかを体で感じることが有意義なのか。結構これは何か本当にだ話なんすけどこういう違いまでやっぱ存在論とか認識は僕は変わってくると思うんですもうなんかその人の性格によってもうやっぱりどうしてもだから性格がどうつく逆かもしんないっすよね。そういう感じで性格が作られていく中でそういう性格だったから、気質があったからそういうふうなのに好きになってくれますけど、面白い。いや本当にていうのでちょっとね、言葉自体は難しいんですけどもこれから多分そういう話も触れていくとは思うんですがなんかあんね、本当にいろいろなご議論の違いがあったりとか、その生き方の違いとか、何か感じ方の違いとかも結構存在論とか認識の違いで関わってくるのでだから何かやっぱり、
結構なんか物事が対立したときには、やっぱり何か相手がどういう発想とかどういう立場にいるのかなっていうのをやっぱりこうね、あの見極めるのはいずれにしろ大事だなというふうには思ったりします。
最後の話題に移りたいんすけど、今までね、哲学とは何かって話を哲学がどう開始されるのかと哲学の大きな枠組みみたいな話をしたんですけども、最後はちょっとね、ちょっとかっこつけてというか大上段振りかぶってなんで哲学が学ぶのかみたいな話一緒にできればなと思うんですけども。
哲学って本当に、多分もうプラトンとかですね古代ギリシャとかあるいは講師とかもそうかもしんないすけど、東洋とわず古典を読んだら、あんまり何か考えること間変わってないなって思うと思うんですけど。
学生:それはすごい思いますねはい。いやなんか、ずいぶん前ですけどあのカラマーゾフの兄弟を読みまして、ドストエフスキーの。読んでるとやっぱりその人間が何でしょう。悩みだったり、っていうのってやっぱりいつの時代も変わらないんだなって思うんですね。なんか古文とか読んでてもね、全然人間変わってないね。そうそうがあったりですね。もちろん多分それぞれの時代に応じた文化の形式があるから、その感じ方とかね、何をいいとしてとかも全然違うと思うんすけど、なんか根本的な問いとか悩みって結構変わってないなと思うと思うんですよ。
だから何か、
全然進歩してないなとか思ったりすると思うんですけども一方で何か自然科学とかは何か日々日々何か新しいね発見とかも出てきたりとか、すごい進歩しね技術とかもそうですね。テクノロジーとか何か日々進歩してるように思うわけですけども、それで最新のトレンドを追ってくと確かにいろんないいことがあるかもしんないすけどなんか哲学やってもなんか全然何かこう進歩してる感じがしないみたいな、多分あると思うんです。
哲学を学ぶ意味
確かにそれは多分そうでもう本当に同じような問いを、もう何千年間ずっと何かこうね。ぐるぐるぐるぐるこうね同じようなところを人は考えていて、じゃあ何でこれ学ぶ必要があるんだろうっていうことですね。
はい、考えたいんですけど、何かこう、意見あったりしますか。哲学今までの話を下に今までね、多分いろんな触れてきたと思うんですけど、それを踏まえてもいいんでなんか何で哲学を学ぶんだろう。、
学生:哲学を学ぶ理由みたいな感じですよね。
教員:というか進歩してないように見える哲学を学ぶとなんかこう波何かあるのかなみたいな何が確かになんかこの今の時代哲学求められてるところあると思うんですけどただ、多分何かを何かこう自分の問題解決できるなと思って哲学に足を踏み入れるとですね、あれみたいな、むしろ悩みが深まるみたいな。簡単な処方箋にもならないと思うんですそうですね、はい。
だからね、なんか今の時代やっぱ哲学大事だよなとかなんとなく思って哲学の本読むと、何言ってるかわかんないとか考えて考えるほど、なんか読む前の方がもしかしたら幸せというかねとかも知れないみたいなことがあってですね、そんなに思い悩むことなかったのかもしれないとかねそういうこと全然あると思うんですよ。
そういうふうに確かに考えると、一つは、何だろうな、考える伴走者の役割はあるんじゃないのかなって思って、その自分が考えているその疑問だったりっていうものを同じくして、その、と考えてきたその先人たちがいてその人たちの本を読むっていうことはつまりその人たちと共に一緒に考えることができている何か一緒の考える仲間を得ることができる点は、確かに哲学をその学ぶにとかはあるのかなっていうのともう一つは何でしょうね。
一つその考えでその思考力を深めるっていう点でもやっぱり通じるところはあるのかなと思って、やっぱりそのなぜ一つの問いができたらそれはまだなぜなのかそれがまたなぜなのかっていうなぜっていう問いが3回4回っていう繰り返されるっていうことは、やっぱりその思考というものがどんどん深まるっていうそのなんていうの思考力、ていうものをつけるきっかけというか材料というツールにはなるのかなというふうに思ったりしますそうですね。
教員:「友達」っていうのが出て来るわけや僕自身別に哲学者を学ぶ意味とかね、意義とかもう僕の答え答えかなこ先にちょっとね、言える立場でもないのでいや皆さんと一緒に考えていきたいなってことあるんですけども、今の話を聞いてやっぱ友達っていうのは結構大事かもしんないっすね。確かになんかソクラテスも講師もそうですけど、やっぱりこう、街へ繰り出して友達をね作っていってたんですやっぱりね自分の話意見をソクラテスに共感するような人を集めたり孔子もねいろいろお弟子さんがいっぱいいたわけじゃないですかねでも確かに学問って結構仲間が大事なんですよ。
それをねよくだから何とか例えば英語では学学閥とか学派のことスクールっていうですね、なんかまさにその人たちのスクールがあるわけなんですけど、学校があるわけなんですけど、そういう意味で、良い友達を見つけるっていうかね、だから本当に最初にやってた人たちって大学もさ、やっぱり学びたい人がこうね、ヨーロッパ中に移動して学びたい先生のもとへ行ってっていうのが、その大学の起源だと呼ばれる良いですね。
やっぱり確かに何か、医師、共に学ぶ仲間を見つけることができるというのは、何か哲学をね、通じてやっぱり仲間を見つけるっていうのは結構大事なことだと思うんですよ。同じような関心を持ったとか同じような疑問を持ったとか、同じような悩みを抱えた人たちと仲間を作って、その人たちでいろいろ議論して、なんかこうね、大事なことというか、何か考えたいことを、うんをシェアして、うん。
その学びを深めていくっていう、そういう何かスクールというかアリーナというかものを哲学を通じてできるっていうのは、とても大事なことだと思いますね。もちろんなんかこうね閉じていっちゃったら良くないと思うので、こういう感じでこう発信してね、うんなんかしたりした方がいいと思うんですけど確かにあの僕は全然想定してなかった答えというかあの友達みたいな話が出てきたんですね。
フランスのねあれもね、三つのあれも、そういう友愛っていうのがですね博愛とか言われたりします。
うん。
確かに友愛にあふれた、こうね、空間というものを、こうね、学びを通じて作っていくっていうすごい大事な、うんことだし、何か哲学を学ぶ意義の一つですかねとツッコあるいは突っ込まない合うというか、あるいは哲学する、うん。
知を愛し続けるこうね同じような関心を持って同じように知を愛し続けるような、何か集団を作るっていうのはすごい意味があることそうですねいうふうに思いましたね。
あと他ももう1個何でしたっけ思考力として確立が上がるんじゃないかっていう、もちろんそうですよね。
うん。
哲学を学ぶとやっぱり結構さっきも言った認識論とかsとか結構いろんな学問の前提とか基礎になってるので、哲学を一通り学ぶと、一通りっていうか一通りって一体どこまでなんだって話なんすけどある程度以上学ぶと、結構他の分野でもすぐなんかこうね、理解しやすくなるのは何かあるなというふうに思いますね何かこれって実はあの人が言ったこれ基にしてるなとか、
何かそういうことは結構あるなと思うんですよ。だから思考力が深まるというか、基本的なものの見方っていうものは何か獲得できそうな気がしますね。
思考のフレームワークたくさんいることが、そうなってくると、別に何かね初めての文章を読んでも、大体なんかこれはあの人に近しいなとそういう意味でもなんか友達を増やしていくっていうか、確かにね別に生きてる友達じゃなくてもいいじゃないですかこの人とこの人友達だなとか、その取捨あるいは文章同士の友達みたいな、うん。
この人とこの人友達でこの人とこの人ちょっとライバルだなとかですねそうですねこの人この人の考え方結構対立してるなとかねそういうの結構哲学を学んでいくとなんとなくこう見えてくるんですよ。
うん。
そういった意味で確かにいろんな学問のも、もうさっきの横断的に学ぶっていう、その営みをするってことをするならば、確かにその哲学っていう知識の土台がそうそう共通のアリーナがね、いいのかなっていうふうになんか確かに最近今ね教科横断のねリベラルアーツ的なありますけど、何にせよ哲学みたいなものはわかってた方が結構物の見方がすっきりするというか、これはこういうことでっていうのがなんとなくわかる。イメージがつくようになって、思考がこう整理されていくような感じは、しますね。
ありますか。
もちろん確かに何なんだろう混乱というか混迷の時代に、何か哲学を学ぶと何かこう理念が作りやすくなるとかねそういうことももちろんあると思うんですけど。なんか今話をしてるとやっぱり友達作りというのが、とても大事な、はいことだなというふうに気づかされましたね。リオンちゃんの意見を聞いてですね、確かに哲学を学ぶと友達ができるなんですね。
そういう意味で敵も作りにくくなりそうですよねいやでもでも逆にはっきりするとあの人は何か仲良くできなそうなことが見えてくるかも知れないですけどね。
っていうのでやっぱりこうね、はい。
いやでもやっぱり知を愛するっていうことはですね。やっぱり愛というものがあるのでやっぱり友愛とかそういうものがこうね、あるいはであればやっぱり自分なりの考え方が出てくるとやっぱりなんかあの人、ああいう考えはちょっと嫌だなってもはっきりしてくると思うんですよ。
そういう意味では何か自分の哲学というか、自分の考えが確立していくというか、固まっていくことができるっていうのは、はい。
だから冒頭でも申し上げましたけども、やっぱりそのね論文を書いたり、この勉強カチカチしたり何かある哲学者のことについて詳しくなるだけが、哲学じゃなくてやっぱりもう本当なんか原理的にみんな哲学者になれると思うんですよね。
うん。
知を愛し求め、ともに知を愛し求めていくようなですね、そういうことを、が好きというかそういうことにどうしてもこうね、なんかあの時間を割いてしまうような、うん、やっぱりですね哲学をして哲学者だとこうね、言うことができると思いますのでですね。
はい。
これからねいろんなお友達を紹介していくので、そうです。
皆さん人の友達になるか友達にならないかはまた別ですけれども。って言うかそんなこと言った哲学だけじゃなくてポッドキャストでやってるいろんな学校もね皆さんと友達になったり、あるいは平和になったりすると思うのは何かそういう観点から聞いていただけると結構面白いのかなね身近になりそうですよね、結構こいつ友達なんだよね哲学書を読むときもねだからこいつ友達になりそうだなとかね、あるいは何かこいつ多分近すぎて友達にはちょっと向かないかもしれないかなとかねこいつだけ友達になりたくないんだよね。
哲学というものはこっちを愛し求めるそういうそういう営みなんですけどもそれをね、言葉を通じて言葉を通じてってことはやっぱりその友達、あるいはその人、うん、人だけじゃないですけどね。なんかいろんなものとコミュニケーションとって友達になってライバルになったりするという、そういうね、そういう実践であると。
勉強するというよりは実践しようと、うん哲学を考える上では、その存在論と認識論という大きな二つの見方があるので、これを前提にしていると、結構いろんな議論が見やすくなるんじゃないかと。
このことをお話して参りました。っていうことでそろそろいい時間なんですけれども。
最後何か一言ありますか。
学生:哲学者というか、哲学ができるような、できるようになりたいなっていうそういうふうに勉強していきたいなっていうふうに改めて思いを持ったなっていうふうにはありますね。ということでですね、はい、あのスピーカーは谷口と学生のリオンです。
はい、ありがとうございますありがとうございました。