【Loohcsアカデミー第4回】倫理学① ー倫理学は何を扱う学問なのか

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こちらの記事ではラジオの周へん情報(倫理学に関する書籍・おすすめの本など)併せて紹介しています。もしよろしければ、ご一緒にどうぞ!

↓文字起こしです

始まりましたLoohcsアカデミーの時間です。Loohcsアカデミー通称Lアカはですね、ルークス高等学院やルークス私塾が日頃行っている授業を公開していこうという趣旨の番組でございましてですね、中高生からあるいは10代からのリベラルアーツという方向性でやっていてですねいろんな学問について毎度スピーカーとスピーカー同士で対話をしながら学問を掘り下げていこうという趣旨の番組なんですけどもね。
はい。
今回もスピーカーですね。
Loohcs社取締役で高等学院の方で教員やっております谷口2と学生のリオンです。よろしくお願いします〜。ということですね何回かLoohcsラジオ聞いてもらってる方にはもう毎度おなじみのメンバーだと思うんですけども。
はい。
今日は何をやっていこうかということなんですけども。今日はね、前川りおんさんたっての希望っで倫理学を話していこう、倫理学ってどういう学問なんだろうということについて話していこうということなんですけども。

現役高校生が「ケアの倫理・医療倫理」に興味を持つわけ

どうしてこう倫理学興味あるんですか。
学生:何でしょう、初めて倫理学に興味を持ったのは、その生命倫理っていう言葉を知ってからなんですね。
はい。
それはなぜかっていうと、毎度話しています通りその令和型精神医療の中で、その倫理観が失われているっていう記事をよく見るんですね。
事件とかで、例えば何て言うの患者さんを無理やり固定して治療し続けたり、またそのずっと投薬し続けるだけで、その患者さんを根本的に治していない、これは倫理的にアウトなんじゃないかっていう問題が、ニュースとか見てるとありましてそれで生命倫理っていう言葉に出会って。じゃあそもそも倫理って何なんだろうなって思ったりして。それでその興味を持ちました。


補足するとですね前川リオンさんは一時期精神病院に入院していたこともあってですね、生命倫理というか医療倫理に近いのかもしれないんですけど、まあね精神医療の現場では往々にして人間を人間というかね、ある種、ちょっと異常者として、時にはね必要なこともあるんでしょうけども、時にはあの身体的な拘束を伴う、治療ということですね、身体の自由を奪ったりもちろんそれが一概に悪いとは言えないんですけど行き過ぎてしまうところがあるというのが、問題点として指揮指摘されてますよね。
最近だとねちょっと話は変わりますけど。例えばホームとかでね、結構多いじゃないですか、その職員による老人の暴行だとかそういうのもありますしね。
はい。
そういう意味ではやっぱりケアの倫理とか、そういうのが最近のホットなテーマの一つでは、ありますよねっていうのでちょっと自身も、はいそういう経験をしたということで何か差し支えなければ、ちょっと具体的なイメージをしてもらった方が、うんリスナーの方にもわかりやすいと思うので、どういうことを治療行為としてされたんですか。

精神病院での入院生活から見えてきたもの


学生:まずひとつ目が、私がまず入院したときに、その薬の過剰摂取でその入院することになったんですけどそのときに目が覚めたら身体を拘束されていまして。これってもう時代的に終わってることじゃないのかなって思いました。その全身を固定されていたっていう体験が具体的なその一つありまして。
もう一つが、その実際にその精神病院に入院したときにその部屋から出れない閉鎖病棟なので、部屋から一切出れないしその窓も厚くて外の音が一切聞こえない。だから本当に社会的にもその環境的にも閉鎖されている。もう一つが面白いなと思ったのが、その保護室っていうものがあるんです。
そこは私は体験してないんですけれども聞いたところによるとそこに入ると防犯カメラが上に付いていまして生活を24時間365日看護師さんに見られてるわけですねそのトイレの排泄だったりもう見られているわけでそうなんだそうなんですよねだから、プライバシーというものが本当にない状態に置かれるわけですね。それって何か、精神が不安定な人をさらに不安定にさせる部屋に置いているんじゃないかなっていうふうに疑問を持ったりもしたんですけど。
教員:それはあれなんです多分いろんなその精神病って人によっても方針違うと思うんですけど、たまたまそれ結構一般的なんですかね。
学生:保護室とかその閉鎖病棟っていうものは一般的ではありますね。調べるとはい。

精神病院の歴史

教員:結構こうね、いわゆる人権というものがない。制約されたような状態といっても過言ではないですしね。あとやっぱり日本の場合精神病棟のコロナで病床数が日本多いのになんでこんなすぐ埋まっちゃうんだっていう話もありましたけど、結構そこで見えてきたのは、精神病院の病床が多いことも何か言われてますよねちょっと昔、本で読んだことなんですけど。りおん ちゃんとも同じ本読みましたけど。
やっぱりそもそもが、やっぱり治安維持のために精神病院が明治のなんだロシアかどっかの皇帝が来るってことで、あれでしたよね、その皇帝が来るので、街にいるその浮浪者とかホームレスとかそういう人たちを一旦収容するっていう施設からいろいろ始まって。
戦前にはもう1930年代ぐらいでしたっけねちょっとうる覚えで、ちょっと正確な情報じゃないんですけど、厚生省の管轄になってからいわゆる病院として扱いになったんですけどもうんそれまでやっぱり治安維持のための側面ってのは結構多かったっていう何かその名残とかも、もしかしたら何か出自の問題としてね。もちろんいますちゃんとした医療行為をしてるんでしょうけどもやっぱり位置づけとしては、ちょっとなんかね、ちょっと精神的に不安定で何かこう、何をしでかすかわかんない人をとりあえず隔離して収容しておくっていうもちろん重度の人もいれば軽度の人もいてリオンちゃんは軽度だと思うんですぐ帰ってきてますけどそういう人たちも一緒くたにそういう扱いをしてもいいのだろうかとかね。

精神病と意思決定

あと何かね『カッコーの巣の上で』でしたっけ映画があるんですけどロボトミー手術をした。精神病の話なんですけど。やっぱりね、一時期、その欧米社会でも精神病員が人間をどのように扱ってあるいは人間らしく扱ってないっていうことはかなり問題になっていたので、その何かそういう意味でもやっぱり医療、特にねこれから高齢化社会ということであの、要は認知症みたいな認知症はざってしまう高齢者の人も多くなると思うんですよ。
うん。
そういうときにね、なんか本当にそれでいいのだろうかという。なんかその本を読んでいるとやっぱり認知症といってもね結構自分の意思がちゃんとあったりだとかする人もいるけれども一度なんか精神的にこうね何だろう認知症だとか重度の障害というふうに精神障害と認定された場合、代理人というものを立てて親とかあるいはね、配偶者だとか家族とかが後見人として代わりに意思決定をすると、という制度になっているわけです。成年後見人制度ってやつですけどそうなったときに意外と意思があるけれどもうん、精神的に重度な障害があるんで自分で決定できないだろうと思われて家族が意思決定をお願いするんだけれどもそれが患者の意思とはかなりかけ離れてしまってることというのも、どうやら大いにあるみたいです。
学生:それは多分その精神病院に入院する際も多分同じようなケースが起こってると思うんですめ。というのもつまり私も入院する際に自分のその同意書も書くんですけどもそれ以前にその親の同意書が必要でそのどちらかというとそうなんだろう自分の意思っていうよりかはその親の同意の力が強くなって自分の意思っていうものはあまり反映されないし、聞かれることもないんですね。っていうのですね、まだそこまでその入院しなくても別に治療できる段階なのかもしれないけれども、入院してしまうっていう事態は起きてるんじゃないかなっていうふうに思いました。
教員:なるほどだからその家族からしたらね、自分でやるよりは病院に行ってもらった方が楽っていうのもある。けども患者自身からするとあまり病院って長く居たくない人も多かったりして。そこで結構ミスマッチが起こったりとかっていうことはよくあって、これ人として、医療って確かにその生物学的人間を扱う側面はあるけれども、これ本当に人の尊厳とかっていうものを尊重しているのだろうか。っていう疑問がありますよね。

安楽死ができる国とできない国


学生:そういう点でもやっぱり医療倫理とか生命倫理とかって、結構今大事なテーマだと、そうですね、思いますよね後はあれですよね安楽死っていう一つのそのトピックスでもう大体その人に尊厳がある。その終末期最期をおくらせる。ていう点で許可するかしないかっていうのもありますよね。
教員:確かにねオランダとかではね、もう解禁されてカリフォルニアの一部でもそうでしたっけねもう安楽死ができると。ただある種の自殺、自殺幇助なので日本だったらお医者さんが自殺を手伝ったってことはこれね刑事罰に問われることなんですけれども。この生命の自己決定権をどこまであるのかってのも倫理学的に大事なテーマですよねっていうことで、結構いい前振りができたと、はい。

倫理学は社会あるいは価値がどうあるべきなのかを問う学問

倫理学のおおまかな問題意識

  • 人ってどうあるべきなのか
  • 人間的な行為ってどうあるべきなのか
  • 社会的な声ってどうあるべきなのか

今回倫理学ってどういう学問なんだろうっていうのをですね、話していきたいと思うんですけど、今言ったような人、何か人ってどうあるべきなのかあるいは人間的な行為ってどうあるべきなのかあるいは社会的な声ってどうあるべきなのかとそういう意味で、何だろ、この社会あるいは価値っていうものがいかにあるべきかっていうことを取るのが一つですよね。

「〜すべきだ」における科学と倫理の違い

規範に踏み込む「事実」ー事実と価値


どうあるべきなのかと科学とかってあんまりその何々であるという事実、いわゆる括弧付きの事実ですけど、観察された事実、うん観測結果については言いますけども、あまり何々すべきだというのは言わないというのが暗黙の約束になっているわけですよ。
なぜなら科学ってそういうどうあるべきかを、考える学問じゃなくてどうあるのかを考える学問だからだというどうあるべきかっていわゆる価値判断が入ってくるんで、科学はそこまでやったら駄目でしょっていうのもあるわけですよね。っていう一応建前があるんです。じゃあ例えばですけど、科学的にね、例えばもう今、出征前に大体障害特に身体的な障害を持っていたりダウン症を持つお子さんっていうのは結構高確率で判定できるわけじゃないすか、出生前に。それって科学がいやこのお子さんはダウン症である可能性が高いですという括弧つきの事実を述べた。
そしてら結構多くの人は産まないという選択をするのでこれはある種規範の方まで踏み込んでるんじゃないかみたいな議論もあるので、もちろん建前として事実と価値というのは、もう別れるべきだっていうのは、いわゆるカント以後、以降、そういうふうなたてつけになってんすけどそのカント以降って話はですねちょっと今置いときますけども、うん。
そういう価値と事実は分けなければならないんだっていうので、倫理が価値を問う学問、どうあるべきなのかを問うっていうのが一つ。これをいわゆる規範倫理学と言ったりしますね。
つまり規範、どうあるべきかっていう行動規範とか、そうそうそうそうそうそう、なるほどうん。
だからね、どう行動すべきか、例えば何だろう。
学校では、なんだろうね髪は黒であるべきであって、もみあげは何とかであるべきであってっていうの一応規範ですよね行動規範ですよね。校則ってのもある種の規範が結晶化したものですけどもうんそういうものがあったりするわけです。
次にですねさっきりおんちゃんと話したような、ある事例、例えば医療現場において、我々ど、このこういう場合どういう決断をすべきなのかっていう具体的な事例を考えるのを応用倫理学と言ったりしますなるほど倫理学の知見を具体的な事例に応用している。というのでさっき話していたのは応用倫理に近いかもかもしれないですね。
うん。
そもそも倫理とは何かとかそうですね。いかなる場合に正義と言えるのかとかそういうそもそも批判自体をっていうちょっとメタな視点から、倫理学自体を問うっていうねそういう学問もあってこれをメタ倫理学といいます。そのメタその上にっていう意味なんで、つまり倫理学という営み自体をメタ的に分析してみようっていうね。
学生:じゃそもそもその倫理がって言われてること自体が良いことなのかとか、それがそもそも良いとはどういうことなのかとか倫理規範ってどういうことなのかとか規範を本当に応用できるのかとかね。
うん。
なるほど。
教員:そういうメタな視点に立つのがメタ倫理学っていう分野でですね大体この3個と言われていますね。
規範倫理学、応用倫理学、メタ倫理学。その中にいくつか、その代表的な理論だったり、そのあるんですけども、はい、うん。
大体これが三つの大まかなものですね。
特に規範倫理学に、主なものは特倫理学っていうものと、義務論っていうものと、あと功利主義、功利主義的倫理学と大体そういう3個が大まかな分類としては、あったりするんですけど、うんそれは規範倫理学の中にあって。応用倫理学となるとそれこそ広いですよね医療倫理学、生命倫理学とか労働倫理学とあと情報倫理ですね。メタ倫理学はそれ自体を問うというような感じになっているんですがですね。
はい。
いずれにせよ倫理学という営みはですね、価値を問うので、どう生きたら我々は良いのかとか、あるケースにおいてどのように判断するのがいいのだろうかと善って何なんだろうかとか、正義って何なんだろうかうん、なるほどいうものをある種論理的に考え、その倫理について論理的に考えていく。のが倫理学ですね。イメージ皆さん多分結構ね知ってる方も多いと思いますけどマイケルサンデルの『今こそ正義の話をしよう』みたいなのは割と倫理学ですよね。例えばあのトロッコ問題とかね。
はい。
ね。
うん目の前にね、今と暴走トロッコがいて、目の前に5人作業していて線路を切り替えたら1人だとつまりここで5人の命を取るか1人の命を取るかていうねトロッコ問題みたいなものを議論したりして、例えば5人の命を優先して1人をの命を犠牲にするってのはある功利主義的な考えですよね。
つまりその5人の5人死ぬほどよりも、1人死ぬ方がみたいな。最大多数の最大そんな感じですね。
そういうようなことをいう人が多分現代社会はもしかしたら多いのかもしれない。
学生:最近話題になった正義の教室。ていう本あると思うんですけど、あれはどちらかというと倫理というよりかは哲学より?
教員:それをちょっと僕存じ上げないですけど正義の教室ってどういう。
学生:どういう話だっけ。でもそれこそ功利主義とあともう一つあと何か二つな三つ何て言うんですかっけ主義があって。何だっけな、何だっけ。忘れちゃった。
教員:功利主義と徳倫理学と義務論だと思うん、いや違うのかな、わかんないちょっとこれ読んでないのでわかんないすけど、これ読んだんですか。
そうなんですよね。
そうなんだそう。
功利主義と自由主義と直観主義が三つが対立したっていうような話で、なるほどなあはあ、うん。
そういうようなねなんか最近結構そういう倫理の味方でしたっけ何でしたっけ。
何かドラマもありましたよねそう『これからは倫理の時間です』そうそうそういうのとかさ、あの『正義の教室』とか、そのね『これから正義の話をしよう』とか、うん結構やっぱりグローバルな時代でVOUKAの時代とも言われてますけど、かなり今、21世紀グローバル化もしたし、情報技術も、情報技術がグローバル化を後押ししてるんですけれどもそういう中でも異なるいろんなね、もう日々いろんな情報が入ってきてるしはやっぱり我々とはつまり日本といっても広いですけど我々とは違う価値判断をする人たちとも一緒に生きていかないといけないあるいは日ごろこうねコミュニケーション取ったりするっていう中で、うん。
そういう異なるいろんな価値観をどう調停するのか、調整するのかっていう関心もありますし、やっぱりね、現代技術が生命を作り出すことができるようになったので、人間が生命を作り出すのは本当にいいのだろうかっていうのでやっぱり情報情報というか科学技術が発展すればそれほど倫理的な問題ってのは結構増えてくと思うんですよ確かにそれは見えますね。
だから、だからやっぱり結構なんだろう、日本自体もね、ちょっとこうね昭和の価値観みたいなものが言い直されてね。
ただ我々どこへ向かっているのだろうかと言われると、うん。
だから昭和的な日本をこうね、問い直さないといけないとは言われたけれどもその先に何があるんだろうかとかねもちろん、パワハラとかモラハラとか、そういうハラスメントの問題とかもあったりだとか本当に今価値が価値観がすごい激動している時代だと思うので、だからこそ、何かこうね我々はどうあるべきなんだろうかっていうことを考える倫理学とか需要が高まってるんじゃないかなというふうに思ったりしますね。
なるほど。

時代は変わり人も変わる


学生:変化することが増えていってるからこそ、その中で何がいい価値判断なのか行動規範なのか、ていうものをやっぱり問われているし実生活の中でもそういった会社の中にいると問わざるを得なくなってきているっていうことでやっぱり需要があるんでしょうねきっとね。
教員:だからやっぱり、あるいはねもっと教育は我々の高校生の立場に立ってみるとやっぱり親はこういうことを言うけれどもやっぱ時代変わったんだから、なんか親が言ってることだけが信頼できないし、とかねもちろんね、昔だったら情報量が限られてたから全部親が言えば、それは絶対だったかもしんないけどネットで調べると全然違う価値観を持った人たちの情報とかも入ってくるので、そうなるとどれが正しいのかもわかんなくなるし、親からしてもやりづらいですよねやっぱりね。
ていうので、あの高校生目線からすると、やっぱりそういうところあるんじゃないかというので、はい。
やっぱり我々どういう聞いていくべきなのかっていうのを生きてたら何かどっかで問わないといけないテーマですし、科学というものはそれを問わないでやってきたわけですけども。やっぱりこうやって価値規範がどんどんどんどん流動化していくと、やっぱりもう一度どうあるべきなのかっていうことを考えていく、いかないといけないような時代になったんではないかというふうに思ったりするわけです。

倫理と道徳の違い

教員:ていうことですね倫理と言ってきたわけですけども、倫理ってそもそもどういう意味なんだって話ですよね。倫理と似たような言葉で道徳ってありますね。
学生:倫理と道徳の違いとか。
教員:倫理と道徳の違いとかってどうなんですかね
学生:私が個人的な倫理は生命倫理だったり、その情報倫理だったりっていうふうにその広い分野で使われることが多いので広くその社会的に良いとされるものは何かとかその行動規範とは何かっていうものを問う言葉で道徳、ていうものはそれではなくて、もっと個人的なこと、個人の行い振る舞いがそのまま全体にとって社会にとってより良いものなのかっていうものを、等というか表す言葉なのかな道徳心があるだろう道徳の授業では心を豊かになるじゃないですかそういうイメージから。
教員:なんか今話と思ったんすけど、小学校道徳じゃないすか。
はい。
教員:高校の後倫理って科目になりますよね。
学生:なんか道徳の授業はすごい物語チックで。
教員:確かにね、華子さんは太郎さんの花を挿げ替えてあげましたとか何かそういうですよねなんて優しいんだろうとか、最近あの道徳も成績がつくんでしたっけ。
そうなんです。
なんかね道徳に成績つくとかなんとか評定の対象になるのかな。
どういうことだって話になってますけど、道徳って言ったとき取りに行ったときね日本だと教科が違ったりしますね。確かに道徳の方が、個々人のそのモラルいわゆるモダンですね、うん。

道徳はモラルで、倫理はエチケット(エートス)


道徳とかモラルって訳されますけどあの倫理ってエチケットっていうふうに言われたりするんでなんか君チケット悪いねとかね。これ区別して使う場合もあるんですよ。
倫理というものをエチカあるいはエートス、エチケットって言ったときにはある種個人の生き方とか、うん、振る舞いとかそういうものがメインに置かれつまり個人のあり方ですよね個人っていうか、個人じゃないな生のあり方、それはその生き方あり方、何かのあり方自体の問題ですよ。
うん。
ただモラルって言ったときはある種社会的な慣習とかっていうふうな意味で使う言い訳たりすることもあるんですけど。あんまり使い分けないことも多いかもしね。どっちも元々は慣習って意味なんですよ。
あるいは習慣、ギリシャ語でエートスって言ったら習慣なんですよ。良い習慣を持っている人は倫理的ってことなんですよね。例えばなんだろうね、例えばそれこそ何だろう。誰かを助けてあげたと。それは1回きりの行為じゃなくて、ね、あの人は、何回も、困ってる人を見たら常に助けるよねっていうこれが倫理な習慣なんです。倫理的ってことは良い習慣を持っているということなんですよね。
学生:あれですかねその電車に乗っていておばあちゃんに席を譲るとかっていうのも、一つモラル的にはいいことだから、いい習慣を持っているモラルが思っているそういうことになりますよね。
教員:だからあの日例えばその善でそれは、1回じゃ駄目ですよ、毎回おばあちゃんみたいな。いい倫理ないし道徳をあの人は持ってるよね、習慣を持ってるよね。でもただね良いという価値判断自体は、社会的に形成されてるので、うん。もしかしたらね、おばあさんに席を譲らない方が倫理的っていう社会もあるかもしんないじゃないですか。何、そんなんだらやっぱりね、年上があの頼んでもいないのに何かこう勝手に忖度して譲るっていうのは、社会道徳的によろしくないというようなこともあったりしますよね。
教員:何かそれ自体の価値は移動なんですけど例えばある文化集団において良いとされてることを自分の常に習慣にして、つまり自然にできる、自然にできることなんですよ。エートスってね。例えばマックスウェーバーっていう人がですね、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』っていうね、本書いたんですけどここでもプロテスタンティズムの倫理ってこれエートス、つまりエチケットなんですよね。プロテスタントのその習慣生き方、日頃の生き方が、資本主義的な行動様式を生み出したんだってそういう議論なんですけどはい。
それは常に、神の威光を高めるために、散在するのではなくて、その溜め込んで金をね、いわゆるキャピタルを溜め込んで、それをさらに投資して、どんどんどんどん富を増やすということがこれ神の威光を高めるんだっていうよ神の威光このようにね、あまねくもたらすんだっていうそういうそのプロテスタント詳しく説明すればもっといろいろあるんですけど、ちょっとあれ、ここ多分どっか別の社会学とかでは絶対使うので、はい。そちらの方で詳しくって感じなんですけども、つまりそういうようなプロテスタントの行動様式ですよね習慣がいつも神のために投資をしていくという、これ資本主義じゃそうですね。ただ、今の時代は今神様がいなくなって、ただただ資本主義のこのサイクルだけですとエートスだけつまり倫理だけが残ってっていうふうに使ったりするんです。だからやっぱりこの身体化した習慣なんですよね、倫理って元々、うん。
そういうことなんですよ。
だからそのどういう習慣がいいかっていう話ですよ。
学生:ていうことはつまり時代によっても文化によっても変化していくし、その場その場に沿ったその習慣振る舞いができていれば倫理がある人だと思われるしそれができなければ倫理がない人だと思われるし、ていうようなことですよね。
教員:基本的にはですよ。だからいろんな考え方あるんですけど、はい基本的にはそういうような発想で、あのみんな物事を考えて倫理学者たちは考えてることが多いわけです倫理と言ったときそれはだから、
これは一番アリストテレスなんですけどもアリストテレスの『ニコラマス倫理学』てことですね。その場その場でね、最善の行動を取り続けることができるっていうのはこれ持って良い習慣を持っているわけですよ。
へえ、その場その場でってことか。
はい。
うんそういう意味で絶対的な倫理ってのは彼の場合はないし、うん、うん。
学生てことは倫理っていうものは常に変化していく可能性もあるっていうことですよね。
それも立場によってですけど。もちろん絶対的な倫理ってね、従わなければならない普遍的なルールというものがあって、それに身をね、捧げるべきだと考える人もいますけれども、うん。元々ただそういうものがあったとしてもやっぱりこの自分の振る舞いのあり方なんですよ。ちょっとなんか日本で倫理っていう、うん。
君倫理観ないねっていうのとちょっとちょっとね、確かに違うイメージ違う使い方をなりますね。
うん。
学生:その違いっていうのは何で生まれたんです。
教員:何でなのですかね、僕はよくわかんないですけど何で日本でそういうふうな話になるのかって言ったら倫理観って言ったときあれなんて英語で訳すかですよね。あれはなんか良心がないとかなんですかね。
そういうことか。
良心がないってことなんだと思うんですよね多分あそこで言われてることって、つまり君ってなんかこう、そんな冷たい考え方をするなんてっていううん。なんかそういう話になったりしましたね。

善いとは何か


じゃあ、つまりあの倫理ってある種の習慣、っていうことが一旦了解2人の間で了解されたと思うんですけどもじゃあ良いって何なのって話ですよね。
そうですね。うん難しいですね。
つまり善い習慣を持ってる人がいい人なんだろう、じゃあ善いって何なんだっていう。
学生:それが人々の幸せになっているのかって言ったら、どうなんだろうかみたいな話にもなりますよね。
教員:ただ、なんかちょっと良っていうとねなんかちょっと堅苦しいじゃないっすですね。

善いの英語訳はgood


良さって善のことですけどもね。善ってちょっとかた苦しいから、これ英語ですると善なんだと思います。何だろう。
何だろう。
Goodでもそのグッドなんですが、
グッドなんです。端的にグッドなんですよ。
うんそうなんです。
そうでいいねってやつです。何か日本語にね、Goodって訳すと善とかになるんで。ちょっとなんか堅苦しいくなるんですけどGoodってなんだってことは、グッドラックとかもGoodですしFacebookとかもGoodですよね、いいねっていうあの商品もグッズですよね。あれGoodですよねだからいいものなんですよ。ということですねちょっとなんか

Goodとはそもそもなんなのか


善に対するハードルが何かグッドっていうことによってそうですね身近に感じられる感じられるとは思うんですけどもでもそれでもGoodって何なのって話ですね。
なんだろうなあ。
いやだから例えば、いいねってどういうときに押すのとかね。
学生:何だろう。二つあると思って、自分のその何ていうの、個人的な感性だったり何今考え方に共感するっていう意味で正しい自分と照らし合わせて合うって意味でのグッドと多分社会的に良いとされている。例えばボランティアとかっていう行いネットっていうの面白いっすねましたね今FacebookとかインスタとかTwitterでいいねって押すのは何かを社会的にいいことをやっていると思った場合と個人的にいいなと思ったことですね。
ちょっと違うってことなんですかねって個人的に快を感じたらgoodだし。社会的に何だろう、社会の利益にかなってそうだったらこうねそれこそ功利主義的にgoodを押すっていう。確か二つの意味合いがあるんですかね。
なるほどね何とか
学生:学術的にはどうどうなんでしょう。
教員:学術的に結論から言うと、わかんない。つまりいいことはいいことしか言いようがないものなので、こうね、goodそのものっていうものを考えるとこれわかんないっていうのが、つまり学問的にもねやっぱり何Goodとは〜であるというふうに定義しづらいんです。
なぜならやっぱりGoodっていいことはいいとしか言いようがないし、例えばそのね自分が快楽を感じることはいいこと。
だと思うんですけど、基本的に。で不快なものは悪いことっていうふうに言ったりすると思うんですけど。その辺ですね、状況次第じゃないですか。さっきも言ったようにあるいは時代次第じゃないすか宗教によっても違うだろうし、なので結局いいということは、何か言えたとしても善いの内実を定義しようとすると途端に難しくなるわけです。
難しくないんだ、いいとは何か、つまり端的にトートロジーになっちゃうけどいいとは善いことだとしか言いようがない。究極的にはないっすよ。

現実は、複数の善さ(goods)がせめぎ合っている

いろいろなものの見方や考え方があるのが現実の社会


いやだってねみたいな、この複数のグッズがあるわけなんですよだからそのグッドがあるんじゃなくてやっぱグッズがあるんだと思うんですよね。複数の善さがあって。でやっぱりこの複数の良さがせめぎ合ってるっていうのが現実だと思うんですそうですね確かにねあの、公共の福祉とかね、ね、しょうが小中学校でね、ここで習ったり、うん。
すると思うんですけど公共の福祉というのもある種の複数のグッズが対立したときにちゃんと調整しましょうねっていうことですよね。つまりソーシャルウェルフェアにかなう。あなたのグッズあなたの快楽を優先して例えばね、僕は人を殺すのがとても快楽で人を殺すのが一番楽しいんですって言う奴がねいっぱいいたらこれも社会崩れちゃうんでそれを規制するわけですよ。
うん。
学生:あとは公共の福祉っていう観点からすると倫理っていうのは一つ社会の秩序を守るための要素でもある。
教員:だからさっきそのちりおんちゃんが言ってたよな。社会的にいいねと思ったことと個人的にいいねと思ったことが結構鋭く対立することがあったりします。なんか社会的にはいいことだけども自分は反吐が出るとかね。自分は不快だけども社会的なこととされているとかね、
学生:それこそですね何か喫煙者の問題そうかも知れない。
社会的に悪いとされてるけども、喫煙者の快からするとやっぱ喫煙する方がいいとかね。
でも公共の福祉がないとかねそういう話もやっぱり何かそういう話も倫理学的なテーマなんですよ。そういう意味だと結構身近なことにいろいろなね、そのグッズの対立があると思うし、やっぱりね人間は自分の快を最大化しようとするけれどもそれは相手の不快になったりするので、こともよくあったりしますよね。
やっぱりこのグッドっていうね、いい感覚あるいは善いっていうものは、もうなかなか定義しづらいっていうのが、まあね言ってしまえばそうなんですけど。そんなこと言ったらそれで議論終了なので、あの子、これからの倫理学の方のね、対話形式のこの講座ではですね、いろんな観点から、その善、グッドっていうものを考えていきたいなというふうに思っておりますので、あの今回はね、あの出来はしませんが。
この後後のLoohcsラジオのですね、Lアカの倫理学の講座では、いろんな見方を紹介していくと、そう言うふうになっております。
はい。

正義とは?ー正義の反対は悪じゃあない。不正だ!!


でですね次行きますと、はい、次の重要概念これまた、重要だと思いますけどなんだと思います。
学生:善ときたら、善悪。。?
教員:じゃないっす。悪も大事ですけど
学生:何だろう、善と。幸せんじゃない、なんだろうな。全部を全然思いつかない。
思いつかないっすか何だろう。
善に近い概念。哲学とかで言われる概念ですかね。
いやよく言われますよって言われる何だろう。
教員:正義ですね。善ときたらやっぱりその善ともう一つ重大な議論になるのは正義って言うんですけど、正義英語で言うとジャスティスですね。
うん。
教員:正義って言われるとどういう感覚ですか。正義と善ってどう違うんですかねそういえばね、ジャスティスとGoodとか。
学生:正義と善。。正しいと良いっていう、字が違うけれどもそれの意味の違いは一体何なのかって言われると、なんだろうなん正義っていう言われたときと、このね、なんだろうっていうそれこそ正義感があるとかなんだろう、裁判において正義を求めるとかっていうふうに使われる。何だろう、それこその公衆にとっなんていうんだろ。公衆にとってより正しいっていうのが正義。正義が、なんていうんだろう、土台となっている概念なのかなってふうに思いますね。だから何だろう、善いっていうものがあるからこそ正義っていうものが何か生まれるのかなみたいな善さが正義の土台になってるのかなっていうふうな。
教員:確かにそうそれはあるかもしれないっすね。正義って基本的にはですけど、公平性の問題なんですよ。
へえ。
正義感があるとかって正義感があるってなったときに例えば自分の身を売ってとかいうのもあるんでなかなか難しいですけど。裁判の話からすると基本的には、その公平性ですよね。裁判ってね、大事なのは、そうですね。つまり、あの人はこれだけのことをしたんだから、こっちの人にはこれぐらいのことがなければ不自然であるとか、まあねハムラビ法典目には目を歯には歯をとか言ったりしてますけども、うん。正義ジャスティスって言ったら基本的にはいかに公平性を担保するかと。例えば人を殺したんだったらそれ相応の罰を受けなさいってもう一つの正義ですよね。ただ日本語で言ったらねさっきも言ったようなそのね、何かある種正義が悪をとかね、善悪じゃなくて正義悪とかって日本語だよね。
正義の反対語って基本的不正なんですけど。勧善懲悪系のスーパー戦隊シリーズでは正義VS悪みたいな構図はよく描かれるんで。そういった場合善っていうものとあまり区別されてないかもしれないっすね正義というものは善いものであって。多分さっきの話からすると、正義であっても必ずしも良いと言えないことももしかしたらあるかもしれないですね。ので、例えば正義論の問題っていった場合、例えばね、この世界にね、例えば人というものは全て生まれながらに人権を持っていいるのであってときは平等であるのに、このように格差が生まれることはこれ不正義なんじゃないかっていうのやっぱ正義の問題になります。
学生:確かにそれは確か公平性があると言えるのかって言われると、ますどうなのかっていうことだったら、つまり正義があるのかないか。
そうなんですよそれも一つですよね。
教員:あとは例えばね、こういう話もあるわけですよいや、人間は能力が違うんだから、能力が高い人ほどやっぱりその能力にふさわしいものを受け取るべきであって。っていうことは、むしろ、そうそういう発想した場合ですよ。その能力がある人には能力分のものを与えるっていうものがこれ公平性にかなうわけなるじゃないですか。
なるほど、確かに。
学生:それで思い出したのがsfcの問題を解いていて。その所得税の問題で、所得税ってつまりその多く稼いでる人の方がその多く税金を払わなきゃいけないじゃないですか。でもそれってその公平性っていう観点から見るとどうなのかっていう疑問が生まれるっていうのを、なんか見た気がして。

「親ガチャ」・能力の平等


そういう場合は能力主義的なですよね発想に立ってねでもこれに対してはやっぱりその能力というものも、生まれによってかなり左右されてるんだから、結局、能力を持ててるという時点でかなり良い恵まれてるじゃないかっていうような批判があったりしてですね。そういうだから結局人々ができることの範囲を増やしていくのがこれ正義にかなう政策なんだとそういう話になったりしましたねなるほど結果の平等とか、機会の平等など確かに潜在能力の平等ですね。正義と一口に言ってもいろんな正義のあり方、それを公平性のあり方があるし確かにその背後にあるのはそのいかなるものがいいのかという善の感覚かもしれないですね。ここの問題論点があって、善と正義を区別すべきだっていう立場の人もいれば、いや善と正義を区別できないでしょ。
っていうその区別して論じることはできないでしょって立場も人もいるので。つまり善になるものをですね正義にしてしまうとですね、これは何かこうな価値観の押し付けっぽくなってしまうこともあったりするんで、例えばそういうものをしたくない人たちはですね、あくまでもこれだけはしちゃ駄目でしょ最低限の規則みたいなものを正義として設定するってことはありますよね、何かを要求するんじゃなくて例えばね、例えば何集会の自由を禁止しちゃいけませんよとかね。それは何かさせるんじゃなくて、その権力を持ってる人たちが何かをしちゃ駄目っていうルールがあって
学生:なるほどいる義務と権利の違いみたいなこと
教員:ただそれに近いそれ引き取って言うとつまり義務というのはある種の命令なわけですよ。権利っていうのを与えられたものなので、義務を要求してくる場合の正義もあるし、それは区別して、あくまでも最低限の大枠だけを設定してるというような価値観立場もあるんですね。いろんな立場が正義論の中ではあるのでこれまたこれ善と同じですけどそうですよ。どういう正義のあり方を構想しているかによって、うん全然、ね、引き出されてくる結果全然違うので、今言ったようなまさにそのみんな生まれたときは平等なんだからっていう話もあればいや能力に差があるんだから能力にはふさわしいものを与えるべきなんだとね、
学生:なんかでもそういうことを考えてくると、何か不公平であることが逆に平等なんじゃないかっていうふうに思うときがあってっていうのはつまりその生まれたとき、いうのは、その環境とか能力によって差があるっていうことは当然であるけれどもそういう不公平さをみんな持ち合わせてるってことはつまり平等なんじゃないのかなっていうふうに考えたことがあって、それってなんかどうなんでしょうかね
教員:つまり、みんな全てが不公平であるという意味では平等であるというような感覚ですね。みんなが不公平であるという等しく不公平なので結果として公平性が保たれている。ていうような議論はあるのかな。なくはないと思いますけどねそこまで言わなくてもある種みんなが持ってなんだよな。それは結構、もしかしたら面白いテーマなのかもしれないですね。不公平という感覚をみんなが持ってるからこそこの社会は平等だと思います。それはただかなりある種、うん、感覚的な議論になってくるんで。
正義論で論じられる話となるとある種は功利主義とはちょっと違うかもしんないすけど、ある種の、何だろうな、そういう感覚とは異なる物。このルールみたいな原理みたいなことを考えることが多いような気はしますね。
なるほどうん。
なると何だろう。
しいね。

マイケル・サンデル『実力も運のうち』


学生:これは私読んでないんですけどそれこそマイケルサンデルさんの本で『実力も運のうち能力主義は正義か』って本がある。。最近話題なと思うんですよね。それこそなんだろう能力主義になっている現在、その現代だからこそそこはかなりですよねそれが正義とされているっていう現状に対しての、何ていうの、問いかけなのかなみたいな。
教員:そうですよねだからアメリカではかなり格差が広がっていてですね。それこそ本当にもうね、国民の数%がもう、半数近く以上の富を独占しているというですねただアメリカンドリームの建前はやっぱり能力がある人には能力がある分だけをっていうのがアメリカの基本的な原則の一つだと思うんですけど。
さすがにそんなこと言ったって。じゃあ金持ち生まれた一生金持ちじゃんかよみたいなまあねあのピケティとピケティがあの『21世紀の資本』というのは書いてある5、6年ぐらい前に大ヒットしたんでしたっけ。知ってます?そこで書かれていたのですね。要は違う投資をして稼ぐ方が、一生懸命働いて稼ぐよりも倍速でお金を貯めていくので、つまり金を持ってるやつはもう無限に金を貯め、無限にとは言わないけれども、どんどんどんどん金を溜め込んでいって労働してる人は一生追いつけないっていうようなR>Gっていう。金で金を稼ぐ方が儲かるんだ。いや、富が蓄積されるんだこれは良くないグローバルに富裕者層に課税すべきだっていう議論をねしたことがありあったんですよ。
うん。
聞いたことありますねそうですね。
はい。
そういうのでですねやっぱりそういう場合もある種の正義論ですよね。アメリカの場合やっぱりかなりその格差が広がってきても金持ちはもう一生金持ち。今の話で言うとね、大学行ったもんね、年間何百万するじゃないすか出るまでに1000万ぐらい借金があってとかなってくると、いやぁみたいな。これは実力なのかどうかわからんっていうようなことになってるわけですよね。
学生:それこそあれですよね。運がなければ生まれたときの運によってその自分の能力だったり、その階層だったり決まっているんだったらそこに社会的な正義っていうものはあるのかみたいな。
教員:そうですねなんかそういう話であの本はかなり大ヒットしたし。日本でも似たような傾向はアメリカほどではないですけどもあの出ているっていうのはあると思うのではい。そういう意味でもやっぱり、例えばねうちの子でもよく話なんか親ガチャとかね、ありますね親がどういうどういう親のもとに生まれてくるかで人生決まっちゃうみたいな、そういう感覚に近しいと思うんですよね。
だからいや、そんなねあなたはどんな家庭生まれても勉強さえできれば東大に行ってその後良い企業に行けるんだからって言ってね。いやそうじゃない東大生の家庭の年収が一番高いです。
平均年収が一番高い。大体1000万超えちゃってるとね。東大に行くので1000万ぐらい稼げるような親の元に生まれないと。厳しいっていう。全然能力じゃないじゃんみたいなのは日本でもわかる感覚だと思うんですよ。そういう形ですねやっぱり現代社会やっぱり階層と富が、格差が固定化してきているので。
そういう意味ではあの本とかはかなり関心を呼ぶんだと思いそうですね。だしやっぱり問われるべきですよね。改めて、20世紀、つまりねピケティを読んでてもやっぱり戦争後っていうものは。やっぱりグレートリセット、いわゆる濃いね、今まで蓄積した財産と全部燃やされたり、戦火でもうボロボロになっちゃうじゃないですかだから、そっから戦後復興していくと、それは経済成長の方が投資として稼ぐよりも、ブーストかかってるっていうそういうときにはある種そのね働けば働くほどみんな富が入ってくるっていう形になっていて、それはある種の能力主義が一旦達成されてる。例えば、頑張ったら頑張っただけやっぱりリターン来るような時代の状況ってのはあるわけですよね。
学生:そっかある程度その年のその経済復興っていうものが何か達成されて、そのなんていうのもその横ばいになっていくにつれて、富をいくらで持っているかに限られてしまう。

まとめー正義のあり方を話し合って構想していくことが重要だ


教員:っていうような状況になっているのでそういう時代状況で必要なある種の、正義論というものもやっぱりこれから構想されていくんだと思いますし。皆さんで一緒に構想していかしていきたいことではありますよね。そういうようなテーマもやっぱり正義論の範疇に入ってくるといかにいかなる状況が公正なのかっていうことですね。ていう形でですね、大体一時間なんですけども、今回倫理学ってどういう学問なのかっていう話をしてきたわけですけども倫理っていったときには、ある種そのべき論を問う、規範倫理学とうんそれを応用していろんなことを考えるその応用倫理学と。
そもそも倫理学という営みメタ倫理学ってのがあって倫理というのは元々はあの習慣という意味があって、つまりね、毎回良い行いをすることができる人は倫理的な人、なんだと。というようなね議論があったと。
その後に善いって何なんだって話をしたら結局善いってよくわかんないねって話になっていいと並ぶよくわかんない概念の一つの正義みたいな話を最後にして。うん正義って言ったら基本的にはいかなる状態が公正公平であるのかってことを考えることなんですけどもそれもまたいろんな価値がありますよねっていう話でいやあ、多分やっぱりこれはもうやっぱりジャスティスじゃなくて、ジャスティスズであるし、グッドじゃなくてグッズだと思うんですよ。
複数の正義があるし複数の善さがあると思うので。それをですねやっぱりいろんな視点から考えて、いかにしてこのグッズ同士あるいはジャスティス同士を組み合わせて新しいジャスティスないし新しい全グッドっていうものを構想していくかというのがポイントになってくる。
学生:対立じゃなくて、組み合わせていけるかってことですね。
教員:もちろん、もう折り合わない立場っていうのは結構あるんです。そいういう立場でもありながらも。やっぱりいろんな善のあり方正義のあり方を構想していけてる状態はね、それこそいい状態だと思うので、はい。
いろんなね見方というものを、これから対話していって紹介していって、こういう身近な事例をね、倫理学ってちょっとね大上段を振りかぶるイメージになっちゃうので、身近な話題も増えつつ。何かいろんな価値観を、いろんな善のあり方いろんな正義のあり方いろんな立場のあり方っていうものがご紹介していけたらいいと思っております。
どうですか最後なんか。
学生:何だろうなもう、一番面白いなって思ったのが、倫理っていうのは習慣においてその善い行い振る舞いをしているのかっていう観点が語源だったっていうのが面白いなと思って。なんか、なんだろうな普段話していて、あの人倫理感がないねとか、大人に対してもあの人倫理的にどうなんだろうっていうふうにその漠然と言葉を使っていることはあったけれどもその本当のなんての言葉の語源だったり意味っていうものまでは何だろう見つけられてなかったので一つそこが学びになったかなっていうふうに思いますね。
なるほど。そういうことですねまあね、いろんな概念をアップデートしていくということですね。倫理学。これからも10数回に分けてやっていきたいと思うので、楽しみにしていてくださいということで、今回はこれでおります。
はいありがとうございました。


  1. Loohcs高等学院の名物お兄さん。彼の雰囲気は一見おちゃらけている。だが彼の知識はマリアナ海溝よりも深い。詳しくはこちら
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